明導寺さんは一昨年、仏教伝道協会主催の掲示板大賞において見事「仏教伝道協会大賞」を受賞され、大賞に選ばれた言葉が雑誌「女性セブン」に取り上げられました。
明導寺藤岡住職の解説と共に9月下旬の掲示板の言葉をご覧ください。
<明導寺 9月下旬 掲示板の言葉>
法を聞き ともに西への旅をゆく
しばしの別れも 会う処を得て
【三浦唯正 (長崎県島原市浄源寺住職)】
まだまだ日中は30度を超え暑さが残りますが、朝晩は秋の到来を感じる季節となりました。
虫の鳴き声や山々にかかる霧、境内に咲く彼岸花が「お彼岸」の時期を知らせてくれます。
お彼岸の中日である9月23日「秋分の日」には、太陽が真西の方角に沈みますが、先人方は、その沈みゆく夕日を眺めながら、「西方」と示された仏さまのくに「浄土」に思いを寄せてこられました。
明導寺飛地境内である鎌倉時代初期創建の「浄心寺」でも秋彼岸法要がお勤めされますが、「秋分の日」には、茅葺き屋根のど真ん中を太陽が通過して山々に沈みゆくことから、多くの方々がその見事な光景を見るために来寺されます。
熊本県内最古で800年の歴史を誇る建造物の真上を太陽が通過し、真西に沈む光景は、お彼岸ならではの風物詩だといえるでしょう。
『佛説阿弥陀経』というお経の中には、
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
その土に仏まします、阿弥陀と号す。
と記されており、私たちの世界から西の方である遙か向こうに「浄土」があり、そこには阿弥陀如来さまがいらっしゃると説かれています。
それでは、なぜ「浄土」の世界が西の方角にあると説かれているのでしょうか。
この世に生を受けた私たちは、多くの方とのご縁の中で、育まれながら成長していきますが、いつしか成長が止まり、下降線を辿る日が必ずやってきます。
そして、太陽が沈んでいくように、いのちを終えていくことは揺るぎのない事実です。
だからこそ、夕日が沈んでいく様子を、自分自身のいのちのあり方として重ね合わせ、私が「いのち」を終えていく姿として受け取ってこられたのでしょう。
世間一般では、絶望の淵のように捉えられる「死」が、
死ぬとは思わずに、我が国である浄土に生まれると思え
とおっしゃる仏さまの言葉を頂くときに、西の方角に沈む夕日を眺めながら、
自分自身のいのちの行き着くところが、真っ暗闇で恐れおののく世界ではなく、先立っていかれた方々が仏さまとなって待っていてくださる「浄土」の世界に生まれる確かさをいただくことができるのです。
普段の生活の中では、なかなか自分自身の「いのち」に対して目が向かない私たちに、四季折々の日本だからこそお勤めされる「お彼岸」をご縁として、今回の「うた」を詠まれた三浦住職が「法(のり)を聞き」と示されたように、
ご先祖を偲びつつ、仏法を聞かせて頂くご縁を大切にしながら過ごして参りたいと思います。