風水/人吉
人吉城が三日月城と呼ばれる理由。それは築城された際に、三日月模様の石が出土したことに始まります。その満ち欠けが再生の気(エネルギー)を生むと考えられてきた三日月は、人々の祈りの象徴でした。霊石・三日月石を居城の本丸に祀り、祈り捧げてきた相良家。戦国時代には名君と謳われる18代相良義陽(よしひ)によって、現在にまで残る石垣に囲まれた強固な近代城(人吉城)を中心とした都市が計画されます。それは三日月石を戴く人吉城、すなわち三日月城を中心とした風水設計であり、結界思想を反映した都市づくりでした。
風水の考え、結界思想において方角はとても重要な意味を持っており、義陽が特にこだわったのは鬼門(北東)です。そこで、まず考えたのが自身の行政府兼居城となる御館の場所でした。相良家の菩提寺である願成寺が鬼門(北東)のライン上にくるよう、寸分違わぬほどにきっちりと設計したのです。
願成寺とは相良家初代長頼(ながより)によって建立され、長頼はもちろん、歴代の相良家当主が眠る寺です。18代である義陽が生きた時代は過去の秩序や価値観が崩壊して治安が乱れ、大変不安定な時代でした。その一方で新しい価値観が次々と生まれた時代でもありました。そんな激しく流れる時代であるからこそ義陽は願成寺を鬼門(北東)に配し、相良家先祖代々の霊神に護ってもらうことで相良家、人吉・球磨の興隆を祈ったのです。
壮大な風水都市のグランドデザインを描いたのは18代義陽でしたが、38歳の若さで戦死します。その後、長男の19代忠房は若くして病死。次男である20代長毎(ながつね)の時代にようやく御館である三日月城が完成し、天門(北西)に青井阿蘇神社、青龍(西)に老神(おいがみ)神社、白虎(東)に十島菅原(としますがわら)神社を完成させます。そして20代長毎が死去した翌年、心覚坊(しんかくぼう)という修験道の高僧が裏鬼門(南西)に位置する雨吹山(あまぶきやま)で三日月城の方を向きながら殉死します。長毎は朝鮮出兵の際、森で彷徨っていた子供を連れて帰りますが、その子供こそ心覚坊でした。心覚坊はその地で殉死することによって自分が城の守り神となるつもりだったのでしょう。
こうして三日月城を中心とした大きな聖域、風水都市 人吉が完成します。
相良家は鎌倉時代から明治維新まで1つの家柄が700年以上にわたり統治し続けた日本歴史上稀有な藩です。どうしてそのようなことが叶ったのか。それは天と地の気が三日月盆地に溜まり、三日月城へ集め、さらに城に祀る三日月石へ祈りを捧げ続けたことによって、その力が強化された事によるのだと考えられます。
三日月の気(エネルギー)を受けることで、全身が再生していく・・・。
三日月城をはじめ、風水都市を形成する各地を巡ることで、三日月が発する再生の気に浸れるのも、風水都市 人吉だからこそです。
風水とは
風水は古代中国で生まれました。一説には紀元前5000年前にその起源があると言われるほど歴史は古く、現在(2019年)までの約7000年の間に多様な理論が積み重なり、さらには様々な学術的解釈が起きており、相当に複雑化しています。ただ長い歴史の中でも一貫しているキーワードは「気」です。目に見えないある種のパワー。科学のない時代には、目に見えない「気」が重要視されていました。
現代ではインテリアや家相、運勢占いの側面が強くなりましたが、本来は人が住む上でいかに快適に過ごせるかという経験則に基づいた環境実践論であったようです。「気」があるところが快適に過ごせるという、現代でいうシンプルなライフスタイルだと言えるのかもしれません。
風水では「天と地と人」の「三才」のバランスを目指します。人がより幸せを目指すにふさわしい概念ではないでしょうか。7000年もの歴史の中で風水は、陰陽説・五行説・八卦・道教・仏教など様々な思想文化の影響を受けながら発展してきました。特に日本では古代の精霊思想や神道の影響を受け陰陽道という日本独特の理論を生み出し、風水はこの中に組み込まれている形になっているようです。
ただ、いつの世も、国や人種に関係なく、幸せになりたいと願う姿は変わらない。この人吉は戦国時代に相良家が作り上げた“一途に幸せを願う都市"を現代でも感じることができる九州では唯一の風水都市です。
鬼門・天門・地門・人門とは
人吉が誇る国宝・青井阿蘇神社の「人吉様式」をご存知でしょうか?
青井阿蘇神社公式WEBより
「楼門屋根の四隅の軒下にそれぞれ陰陽一対の計8つの神面がとりつけてあります。楼門のこのような場所に神面が取り付けられているのは全国的にも他に類例をみないことから、昭和19年に調査に当たられた京都大学矢崎美盛教授は、著書『様式の美学』でこれを「人吉様式」と名づけられました。」
なぜ、四隅(よすみ)が大切なのか?です。陰陽五行説では陰を静、陽と動と捉えます。図形にすると、陰=静=正方形、陽=動=丸です。
これを重ねると正方形と丸が重ならないところができます。つまり陰と陽が重ならない点、つまり弱い箇所ができます。陰陽五行説では、陰と陽が重なることで最大の気(パワー)を生み出すとされており、この重ならないことは気が弱いとされます。これを東西南北の地図で当てはめると、重ならない点は北東・北西・南東・南西になります。ここの場所は鬼が往来しやすいとされて、古来この方角を鬼門、天門、人門、地門といいました。特に日本では鬼門にこだわりが強く、鬼門思想は日本独特だといいます。
四神相応(北・玄武 東・青龍、南・朱雀、西・白虎)とは
人吉・球磨地域は、古代より美しい水が豊富で土地が肥沃で米や農産物生産に適していました。さらには“九州の臍”として交通や軍事の要衝ということもあり、天皇や貴族が直接携わるような土地柄でした。それは古くから中央、すなわち京の最先端の文化や思想が流入していた意味でもあります。例えば三日月城の天門(北西)を護る青井阿蘇神社。日本最南端の建築物国宝でもあるこの神社は1世紀(大同元年/806年)に鎮座されたといいます。青井阿蘇神社の公式WEBには鎮座された理由が掲載されています。
「南方の池は神様の姿を写すであろう、北方は人々の騒がしい生活を阻むであろう、東方の高く聳える城郭は猛族の進入を阻むであろう、西方にひろがる林は暴風や火災を防ぐであろうからこの場所は神を祀るに最もふさわしい場所なのである。」と、古い棟札に記されています。また別の見地から、風水思想の「四神相応(ししんそうおう)の地」として考えることができます。
四神(神獣)が有名になったのは、飛鳥藤原京の南に位置するキトラ古墳の発見でした。石室内面には天文図の四方壁面に美しい四獣が描かれています。
東西南北の四方位を護る神獣です。もともと四神獣は、夜空に広がる星々で28の星座を作り、さらにそれらを東西南北の神獣に纏めたものです。北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西には白虎という神獣を創造しました。また古代の人々は星や星座は天の気(天気)を表していると考えていました。四神も天を護る神獣として天気が姿を現しており、それらが地上に降りてきて、地上の神である山に姿を変えたと考えたのです。つまり四方に山に囲まれているのは天の神獣に囲まれていることなのです。相良家も三日月盆地(人吉盆地)を囲む山々に神を感じとり、三日月城の近隣には城を護るべく東西南北に多くの神社仏閣を配置しています。