人吉・球磨
風水・祈りの浄化町
現代は本当に疲れる時代です。
うまく行かないことばかりで、ずっと何かにイライラ。
いつ降りかかるとも分からない大きな災害や事故、病気やけが、身体の変調、人との関わり、金銭面、先行きの見えない将来・・・。
考えるにつれ心を囚われ、抱えざるを得ない問題に不安が募り、
怒りがこみ上げ、落胆し、諦める、の繰り返し。
そしてTVや新聞、インターネット、あらゆるメディアから押し寄せる情報の波。
楽しいばかりの情報ならいいけれど、
悲しくて苦しくなる情報に心を痛めることもしばしば。
自分の中の何かがすり減らされていくような毎日―――。
その昔、人々は気がなくなることを「気枯れ(ケガレ)」と言いました。
人は本来、気があふれる存在なのですが、
こんな疲れる現代生活では、人が持つ気は枯れていく一方です。
気は、枯れ切る前に充填しなければなりません。
「もう限界」と、疲弊してしまっている人も、
「まだ大丈夫」と、すり減らされていることに気付かないフリをしている人も、
ほんのちょっと、今いるその場を離れてゆっくりと深呼吸してみる時間を、気を与えてくれるどこかで。
そんな時、人吉・球磨を訪れてみてはいかがでしょうか?
人吉・球磨地方は、熊本県南部に位置する人吉盆地にあります。この地を語るにあたってのキーワードとしては大きく2つ、風水と三日月の気(エネルギー)です。
風水の思想として気は天と地から発せられ、そしてその気が溜まる最適な場所は盆地とされています。風水都市として有名な京都も盆地です。人吉・球磨地方も同じく盆地でありますが、三日月の形をしているのがその特徴です。この「三日月盆地」は、鎌倉時代より明治維新まで700年以上にわたり相良家が統治していました。
相良家はその間、域内に様々な結界を作っていきます。結界とは俗域と聖域を区切るラインであり、そのラインの内側は気を取り込める聖なる空間となるのです。身近な例としては、地鎮祭で神主さんが土地の四隅にしめ縄を張ることで、しめ縄の内側は聖域となることを意味しています。相良家はこのように気が溜まるに最適な盆地に結界を設け、聖域とすることでさらに強く気を取り込み、人吉・球磨地方の安定を確保できると考えたのです。
そうして人吉・球磨地方に作られた最も強い聖域が風水都市・人吉です。相良家の居城であった人吉城は三日月城とも呼ばれ、それは代々、城の本丸に霊石・三日月石を祀り、祈りを捧げていたことに由来します。古くから、日本人にとって神聖な存在であった月。太陽とは異なり、満ち欠けをする姿が死と再生をイメージさせ、とりわけ満ちていく三日月には再生の気(エネルギー)を感じとっていたからでしょう。戦国時代、相良家は気が溜まるこの盆地において、天(三日月)からの気を中心部である三日月城に集中させるように城下町の設計を進めていったのです。
そして城下町のみならず、風水に基づき気をコントロールする都市づくりは広く、人吉・球磨全域に向けて進められます。相良家は天(三日月)からの気と同様に地からの気をも取り込み、全域へ行き渡らせることを考えるのです。人々は地に存在する山や川をはじめとする自然に神仏が宿ると信じてきました。特に「神奈備(かんなび)」と称えられる山は強い気を発し、人々にとって絶大な信仰の対象でした。相良家は天(三日月)の気を三日月城へ集めると同時に、この地に存在する数多の自然が発する気も取り込みます。その際、『三日月盆地を囲む美しい山々の気を清らかな川が運び、人吉・球磨中に行き渡らせることができるのだ』と、人吉・球磨の地形まで踏まえ、戦略的に意図していたというのも興味深い点です。
さらに天と地の気は交わる場所があり、そこは気が溜まる場所であることにも着目したのです。
その場所に作るべきもの、それは神社仏閣です。
長きにわたる安定政権を確保した相良家であるからこそ神社仏閣を多く作ることができ、加えてそこは天と地の気が交わり、満ちあふれ、そして人々が安らかな日々を送れることを祈り捧げた場所でした。
ここで特筆すべきは、相良家は自分たちがこの地域に来る以前の神社仏閣をも大切にしてきたことです。
特に球磨の山の麓や川の近くには、平安時代から今尚残る美しい仏像群や神社が数多く存在しています。
神社仏閣を自ら作る一方で、古くから地域で厚く信仰されてきた神社仏閣を潰すことなく改築などを行いながら、人々が寄り添える場所を地域全体において大切にしてきました。必要な場所に新たに作り、古くから存在する神社仏閣も大切するその最大の目的は、人吉・球磨地方を抱く三日月盆地全体に気を行き渡らせるためでありましたが、そのように祈り深い相良家ゆえに人吉・球磨地方を長く護ることができたのでしょう。