相良氏の登場と人吉荘
相良氏はもともと、遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市)を本拠とした武士ですが、建久9年(1198)に頼景の長男、相良長頼が人吉荘に下向したとされ、長頼が元久2年(1205)人吉荘の地頭に任命されこの地を治めます。
その後、長頼は次男の頼氏に多良木荘、三男の頼俊に人吉荘南南方を譲ります。以後、頼氏の家系を上相良、頼俊の家系を下相良と呼ぶようになりました。
人吉城の築城と戦国大名相良氏の誕生
人吉球磨を領地とした二つの相良氏は南北朝の争いの中で、対立と融和を繰り返し、結果として武家の拠点となる城郭が整備されることになりました。文安5年(1448)、下相良第11代相良家当主相良長続は上相良を滅ぼし球磨郡を統一します。この頃古文書に初めて人吉城が登場します。戦国時代になると、相良家は芦北・八代・薩摩に兵をさしむけて領土の拡大を図り、陣城や城郭を人吉や球磨郡域に築城するなど戦国大名として発展していきました。
近世人吉城の築城と相良藩
豊臣秀吉の進軍による九州平地の後、相良氏は球磨郡一群の領主として存続します。天正17年(1589)には、人吉城の大改修が行われ、新時代の技術である石垣造りの城となります。また、この石垣造りの城は急流・球磨川とその支流を天然の掘とする「川の城」でもありました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、相良家家老、相良清兵衛の機転により石田方から一転して徳川方に寝返り、この功績で外様大名として存続することに成功します。以後、明治時代の廃藩置県を迎えるまで一貫して、人吉城を本拠とし、人吉球磨の領主を務めることとなりました。
鎌倉時代から明治時代まで長きにわたり、同一の領主が同じ地域を治めるという全国的にも珍しい歴史を持ち、「相良700年」とも称されています。
今回地元の若手の方で作られた地域ブランド「人吉・球磨 風水・祈りの浄化町」で最初に印象に残ったのが三日月のマークです。今回の物語のキーワードは「気」だと思いますが、相良家は山々に囲まれた盆地には気が溜まることを理解しており、盆地を横断する球磨川の流れから感覚的に盆地が三日月の形をしていることをわかっていたのだと思います。人吉城構築の際、三日月が映し出されている石を見つけた時は、加護の力、なにかしら霊的なものを感じたはずです。本丸には天守閣でなく護摩堂を作り、そこに出土した三日月石を霊石として祈り捧げた事実がそれを物語っています。三日月は相良家を象徴するものと言っても過言でありません。
そして私が特に嬉しかったのが風水都市にまつわる数々の事実です。相良家でも、人吉城を護るために、鬼門には相良家菩提寺である願成寺が配置されていることや、他にも様々な神社仏閣が風水思想に基づいて配置されているとは代々聞いておりましたが、今回私の想像以上に緻密な設計だったことを証明していただきました。当時の相良家の想いを再発見してくれたようで嬉しい限りです。
この地域の球磨川、川辺川に代表される美しい川や、澄み切った空気、心が揺さぶられるほどの深い緑の山々に相良家も代々惹かれていたはずです。そのような、日常とは異なる空間に美しい仏像が数多く鎮座している姿を見るたび、相良家が代々祈り深い家柄だったと感じています。鎌倉時代から明治維新まで700年以上の長きに渡りこの地を治めた相良家の歴史は、この地域の神社仏閣の歴史と表裏一体です。神社仏閣の歴史はまさに相良家の歴史そのものです。建築や仏像の美術的価値はもちろんですが、歴史的史実にはない、その時代時代の思想や文化、そして人々の想いが神仏に表現されています。今回の地域ブランドによって、そういった数百年前の当時の人々の想いを知るきっかけになればとも思います。
最後に、今回のプロジェクトは地元の若い方々が人吉球磨の未来のために主体的に取り組まれていると聞いております。この取り組みが相良家の想いを再発見してくれたことに感謝を申し上げ、そしてこの地域ブランドが人吉球磨の未来のために成功されることを祈念し結びと致します。