根拠史実について
数ある文献の中でも、とくに人吉球磨・相良家の歴史書の中でも第一級史料とされるのが『南藤蔓綿録』で、人吉藩士梅山無一軒が執筆し、政治・経済・風俗宗教・生活・信仰にわたる人吉球磨の歴史研究の礎です。
同著には明確に“弘秀法師ハ……御城ヨリ丑寅鬼門ニテ寺ヲ御建立也(弘秀法師は……人吉城より丑寅の方角の鬼門に寺を建立した)”や
“人吉ノ御城ヲスベテ三日月ノ城ト称ス(人吉城を三日月城と称す)”、等の原文を見ることができ、私どもの「再発見」の原点にもなり得ています。
その他、『探源記』、『人吉史』等の文献にも、鬼門・裏鬼門の記述を確認することができます。
『南藤蔓綿録』(原文抜粋)
願成寺開山弘秀法師ハ遠州ニテ御祈禱坊主故御同道ニテ御下向、依之御城ヨリ丑寅鬼門ニテ寺ヲ御建立也
一 三日月城由来、人吉ノ城ヲ三日月ノ城ト申ス事、長頼公初メテ御城普請ノ節、二丸ノ未申〈西南〉ノ方ヨリ三日月ノ石体ヲ堀リ出サレ候、不例ノ霊石ナリトテ則チ其所ニ社壇ヲ造テ安置サレ候、但三日月ヲ墨ニテ書キタル様ニ有之、自然ノ石也、因玆、御城二丸未申方三日月ノ城ト号。
一説ニ此説然ラズ、人吉ノ御城ヲスベテ三日月ノ城ト称ス、又此石長頼公御代ニ出タルニアラズ、上代ヨリ有之由、星霜久敷故、前後実否分明ナラズ、此石今愛宕山ニ有、神前三日月ノ小祠是也
付記
『南藤蔓綿録』は相良氏の祖先から、23代当主・頼福の在世した享保5年(1720年)10月までの約500年間にわたる球磨人吉藩相良氏に於ける歴史を全14巻に著したもの。著者は人吉藩の剣術師範であった梅山無一軒(実名:西源六郎昌盛)で、成立年は文化年間。
相良家における政治、社会、文化のみならず、経済や交通、気象、災害、風俗、寺社、及び仏像の縁起等にまで言及して記されています。文久2年(1862年)に藩内で起こった大火「寅助火事」により相良家の家記が消失した事を受け、同年『探源記』、『嗣誠独集覧』などと共に、無一軒の孫である梅山昌寿により藩へと献上されました。
また、古書『日本城郭大系〈第18巻〉』内、[球磨地区人吉城]には“なおまた、陰陽道から鬼門の願成寺と裏鬼門の永国寺が人吉城の鎮護の道場とされ、城内には氏神の春日神社・天神社・地蔵堂、そのほかの寺社が勧請された” との件が示され、この一文は、私たちの「再発見」を裏付ける決定的な記述でありました。
付記
『日本城郭大系』(現在は絶版)は、1980年刊行。その後の城研究に多大な影響を与えた歴史研究本として、その後の当史研究に多大な影響を与えた文献。
編修者の児玉幸多氏は、学習院大学教授、日本歴史学会会長、地方史研究協議会会長、交通史研究会会長等を歴任、昭和天皇・明仁上皇の日本史講義など皇室教育に関わりました。
坪井清足氏は奈良国立文化財研究所所長等を歴任。編修者(肩書きは当時)の平井聖(氏東京工業大学教授)、村井益男氏(東京大学助教授)、村田修三(奈良女子大学助教授)は歴史分野で第一人者であり、熊本編を担当した森下功氏(熊本市文化財調査委員)、阿蘇品保夫氏(熊本市立高等学校教諭)も、熊本を代表する郷土歴史家。
私どもは、拠りどころとした文献や当主のメッセージ以外にも、青井阿蘇神社ホームページでの神社が風水思想に基づいて建立された記述や“北の守護である毘沙門天であるので、人吉城を護るために置かれた”との高寺院の毘沙門天解説看板(山江村教育委員会)等を基に、歴史の足跡と今日にも伝わる風習を照らし合わせ、ひとつのストーリーとして「浄化町ブランド」を形成しております。 歴史の教科書や現代では現地の人間でさえ忘れてしまわれた史実の数々と、現在の人吉・球磨の自然風土や残存する建造物、人々の暮らしを融合、結実させたブランドストーリーを、当地でご体感くださることを祈念いたします。